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取手校修学旅行レポート

今回の修学旅行では、

参加した皆さんに、以下のような課題を出していました。


課題:

旅行の中で体験する全ての物事について、

『「アート」と「アートではないもの」、

また「そのどちらでもないもの」があるとすれば』

というテーマをもって体験し、それを言葉にすることを意識してください。

旅行後、このテーマをタイトルにしたレポートを提出すること。


4名のレポートが提出されたので、以下に公開します。



レポート①


アートとは芸術・美術などに間接的に社会に影響を与えるもの。

芸術とは特定の材料・様式などによって

美を追及しようとする人間の活動及びその所産→人が美を追及し表現すること。


芸術と言うよりアートと言う方が身近でカジュアルな雰囲気、

また、多くを内包しているような感がある。


人がものを作る時、表現する時は必ずそこになんらかの意図が存在する。

見栄えよくするためであっても「綺麗に見せよう」という気持ちは入っているし、

また、アートだと感じる時、作品から鑑賞者は何らかのイメージを受けとる。

その時点でただのゴミも現象もアートになりうる。


そう考えた時、アートという言葉は間口が大変広く、また少々乱暴な言葉でもある。

例えば箱の中にペンを一本置いただけでもアート作品として成立しうる可能性がある。

鑑賞者がメッセージ性を感じることによってどんなものもアートになりえてしまう。


原始美術として有名なラスコーの壁画が元々は古代の人々が必要だから描いたものでも、

時代を越えて私たちが見た時に美を感じた瞬間アートになった。

見る人によってアートは無限に広がっていく。

アートとして表現されていないものも人によってはアート作品になり、

未来には美術品として扱われているかもしれない。


では「アートではないもの」とはなにか?

ものを作ることはアートになりうるし、

人の行動もアートになりうる。


「人」が関わった時点でアートとの接点が出来てしまう。

そんなことを考えて堂々巡りになっていたときに見た

新潟の自然、、虫、蛙…

これが「アートではないもの」なのかもしれない、と考えた。



自然や虫を見て「綺麗だ」とか「カッコいい」とか思うことはあっても、

手付かずの森林や虫、生き物、生態系はアートだとは私は感じなかった。

ただそこにあって生きているものはそれ自体は美しくとも作り手(人間)という意図はない。

今の自然や生態系は人が共存するようになってできたものだろうが、

そこで生きている生命はアートの枠には収まらないように感じた。



「またはそのどちらでもないもの」。

これに分類されるものはなにか?これも考えだしたときにすごく悩んでしまった。

行動でも物体でもない。生態系、生命でもない。

それ以外のもの…そんなことを考えながら、

三日目、ボルタンスキーの「最後の教室」を訪れた。


そこで感じたものは閉じ込められた時間と記憶、そして怖れだった。

私は今まで、本当に近しい人の死に向き合ったことがなく

「死」というものに漠然とした不安感と怖れをもっている。

「最後の教室」はいなくなってしまったものたちの記憶を留める装置のようで

別の世界と私のいる世界を繋いでいるパイプのような気がした。



その繋いでいる別の世界が、行動でも物体でもない、

生態系でも生命でもないそれ以外のもの、

「アート」でも「アートではないもの」でもない

「またはそのどちらでもないもの」=異界のような気がした。



今回の修学旅行はいつものようにテーマ無く鑑賞するのではなく、

レポートを念頭に置いていたのでいつもよりよく考え、

よく見ようと心がけて鑑賞した。

テーマがあったおかげで、久しぶりに掘り下げた鑑賞ができたように思う。

見所も多く、いろいろなお話を聞けてとても充実した旅となった。

一人で作品を見ていると感じられない感覚や視点が見えて感覚の幅、

仕方が広がったように思う。


以上


レポート②


レポート②こちらをクリック


レポート③


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レポート④


「ねぇねぇ、あれみて。なんだろう?」 新潟の大地の芸術祭の帰り道。車を運転する僕の横で彼女が言う。 いろんな作品を見た後で、かなり気分が高揚しているようだ。 「え、あれはただの照明だよ。」と僕。 最近の僕らは『なんでもアートに見えてしまう病』にかかってしまっている。

そもそも、僕はアートなんてあまり興味なかったんだ。 アートが好きな彼女に引っ張り回されて、あちこちの芸術祭に行くようになって数年。 最近思うことがある。アートってなんだろう?

なんでそんなにみんな夢中になってるんだろう?

彼女にきいてみる。 「アートとそうでないものの違いってなんなの?」 「それはね、作者がアートだと思えばそうなんだと思うよ。あとは見る人次第ね。」 ふうん。そんなもんなのかな…。

今回の旅は、初めて車で回った芸術祭だった。なぜって僕が車を買ったから。 都市型の芸術祭はバスや電車でも行けるけど、

この里山を舞台にした芸術祭はやはり車でないとなかなか難しい。 なんせ、カーブを曲がったちょっとした所に作品がポンと出てくるんだから。 見逃さないようにとちょっと必死になる。 知らず知らずにそういった感覚が研ぎ澄まされていくようだ。

道路沿いに現れて驚いたのが『アスファルト・スポット』。 作品と知らなかったら通り過ぎてしまうところだった。 どうしても地震の後の崩れた道路を連想してしまう。地元の人はどう見たんだろう?


そして一度通り過ぎてしまったのが『みしゃぐち』。 うぶすなの家近くのアートサインもほとんどわからないような、集落の片隅にあった。 「わぁすごい!早く来てみなよ。これどうやって作ったんだろう?」

先を歩いていた彼女がはしゃいでいる。 なんと巨大な遺跡のようなものが現れたのだった。 中に入ってしまうと全くの別世界。

なんだか世界の中に僕たち二人だけが取り残されたような気分になる。 こういう作品を苦労して見つけたときの喜び、驚きが、芸術祭の醍醐味なんだろうな。



『人 自然に再び入る』と目の作品『Repetitive objects』も

アートとは何かと考えさせられた。



野外に設置された作品は、メンテナンスしないと時間とともに埋もれていく運命にある。 「なんだかセンチメンタルな気分になってきたよ。

これって完全に草が成長したら見えなくなっちゃうんだよね?

そしたら人から忘れ去られてしまうよ。」と僕が言う。 「何言ってるの。それも含めての作品なんだよ。」と彼女が笑う。 あれ、意外とクールなんだな。

僕はそこまで割り切れない。 アートって人間がそこにいないと成立しないものだ。 人から忘れ去られたら、また人が絶滅してしまったら、それはアートと言えるのだろうか。

クリスチャン・ボルタンスキーの『最後の学校』は、廃校を使った作品。 中は真っ暗で、照明がほとんどない展示の中で、彼女とはぐれてしまった。 男のくせにと言われるかもだけど、

暗い廃校だなんてただでさえちょっと怖かったりするんだよね。



不安な気持ちのまま細い廊下を歩いていくと、

真っ暗な中、心臓の音に合わせて照明が点滅する作品の中に彼女が佇んでいた。 近づくと彼女もホッとした表情を見せる。 「私これ、すごく怖いの。怖いんだけどたまらなく惹かれるんだよ。

そしたら動けなくなっちゃった。」 ちょっと驚いて、そのあと僕は何も言わずにうなずく。 はずかしいから言わなかったけど、僕も同じ気持ちだったんだ。

ロッカーには子供達が学んだ教材や、賞状などが置いたままになっている。 棺のようなケースがたくさんあり、肖像画には何も描かれていない。 そこは人類が絶滅した後の世界のよう。死のイメージがすごく付きまとっている。 見る人の気持ちをザワザワとさせる。

案内を担当していた年配の男性は

「豊島の『心臓音のアーカイブ』に私の心臓の音も入ってるんですよ」と

嬉しそうに話していた。 芸術祭の作品は、廃校になった学校がよく使われている。 一度役目を終えた場所がまた息を吹き返すのは、

地元にとっても、訪れる人にとってもいいことだよね。 要するに芸術祭って人と人を結びつける媒介なんだと思う。

アート作品自体は、人の役に立たないものだと思っていた。 でもアートがあることで、人が集まり、そこから何かが始まっている。

もしかしてそれだけで十分なんじゃないだろうか? 仲良くなった地元のおじさんが言っていた。 「もともとアートなんてよくわからなかったけど、

気がついたらはまっていて、スタンプ3回もコンプリートしたんだよね」 作品を回っているうちに、芸術祭の運営とも関わるようになっていったんだって。

あ、ここにも嬉しそうな人が!

アートは新しい世界への扉なのかもしれない。 あれ? 僕もいつの間にか、アートにはまっているみたいだ。


以上


レポートは以上です。

今後の修学旅行もお楽しみに。